SPL: A.D.2008-09

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【2008年9月29日】 現代日本社会の七不思議の一
◇男教師→女生徒 (たぶん、女生徒→男教師の一部がここに……)
◇女教師→男生徒


はよく報道されるけど、


◆男生徒→女教師
◆女生徒→男教師


はなぜか事件化されないよね。(わらぃ
【2008年9月26日】 「非科学」批判は非科学的価値に支えられて成立している、という非科学的言明の支持
  「35歳以上の妊婦の羊水は腐っている」という言明が、論理的観点からではなく、政治的観点から攻撃されているが、その言明を「35歳以上の妊婦の羊水は腐っている可能性がある」と言い換えた場合においてなお攻撃するならば、おそらくその者の頭は弱い。
  可能性概念は様相論理学という(私にとっては)難しい学問の下で論じられる主題の1つなので、取り扱うには慎重を要するのである。(様相実在論/可能世界実在論が誤っているにしても!)
2008年9月25日】 「雑誌のカラー」問題
  各漫画雑誌にはおのおのの「カラー」があると言われるが、この命題が真であるというのは疑わしい。漫画雑誌の「カラー」というのものが「その漫画雑誌に掲載されているすべての漫画に共通する項」であるならば、「カラー」が成立しているという状況は次の2種類を想定することができる。


  (a) 創刊時にあったとされるカラーが変化していない場合
  この場合、その漫画雑誌は時勢などの影響をまったく受けず、したがって創刊時の特徴から変化しないのでなければならないが、そのような漫画雑誌がこれまであっただろうか?


  (b) 創刊時からカラーが1回以上変化している場合
  これが成立するには、その漫画雑誌の古い作品が一斉に終了し、その次の号から新しい作品が一斉に開始されねばならない。なぜならば、古い作品が1つでも残っていてなお1つのカラーで統一されている場合、新しい作品は古い作品と同一のカラーを有していることになり、したがってカラーが創刊時から変化したとは言えないためである。
【2008年9月18日】 先輩への反論
  私が勤務している(という認識を私は持っていると思い込んでいる)会社では、いくつかの物品を持ち出す際には社内用の伝票を起こす習慣になっているのであるが、何日か前に次のようなできごとがあった。すなわち、事務所内に私のほかに1人しかいない状態で、私とは異なる人が2人のパート・タイマーに日給を計算して渡すという行為を行っており、そこへ先の伝票が必要な物品を求めて他部門の社員がやってきたが、私(入社約10ヶ月)では対応できず、放置していたというものである。事が終わってから、そのもう1人の人が「あのようなときは対応してくれ。」と言ってきたので、こちらはある人を挙げて「その人ならばかってにやってくれますよ。」と応じたところ、「経理の人間だろう。何のために管理をしていると思っているのか。」と返してきた。さらに、その後に「やり方を知らなかった。」という言に対して「知ろうとする努力をしないからだ。」というやり取りがあった。
  さて、彼女の議論の展開に対しては直ちに3つの反論を行うことができる。


  ◆反論1:背理法
  この反論は、私に対する「経理の人間だろう。」という言明が、「経理の人間ならば、当該物品を持ち出す際の処理の仕方を知っている。」ということであるという前提が正しい場合に有効になる。すなわち、彼女は、「経理の人間ならば、当該物品を持ち出す際の処理の仕方を知っている。」はずであるが、「私は当該物品を持ち出す際の処理を知らない。」のであるから、「私は経理の人間ではない。」と言うのである。ところが、私は経理の人間である。したがって、「経理の人間ならば、当該物品を持ち出す際の処理の仕方を知っている。」の短縮言明である、「経理の人間だろう。」は誤謬である。


  ◆反論2:責任の程度
  他方、「経理の人間だろう。」が、「経理の人間であるならば、当該物品について管理せねばならない。」という義務の存在を示唆する表明であった場合の反論のうち、日常レベルのものは次のようになる。(なぜ日常レベルの反論を選択したかと言えば、それは日常的接触から、先の言明において彼女が義務論理学を展開しているのではないと判断したからである。これは、ドナルド・ハーバート・デイヴィドソンによる寛容の原則の実践であり、彼女に「も」配慮した優しいやり方であると言える。)
  当該物品を管理せねばならないのは、社内に盗む者が潜んでいる可能性が(分析哲学的レベルなどではなく)日常レベルで考えてもあるからにほかならない。(※)社外の者を考慮の対象外にする理由は、私を非難した者ですら、排泄その他の用事のために事務所内に常時待機しているわけではなく、それどころか家に帰っている時間帯もあり、さらには所定の休日もとっていることが、経理課の者が社外の侵入者にまで注意を払う必要はないことを示唆しているためである。(これも寛容の原則に基づく結論である。)ところで、日常的に考えれば、よほどのことがない限り、他者の所有物を盗むことは法的にも、倫理的にも悪であると判断される。他方では、残念ながら少なくとも小学校の段階ではその教えを受けてしまうはずであり、各人の自己責任であると言える。したがって、経理の人間であろうと、何であろうと(警察官ですら、見つければ自らの成績のために動くが、すべての窃盗行為の可能性を考慮して事前に動いているのではないはずである。)それら行為を監視するなどという義務を負っていないように思われるのである。(少し冒険して寛容の原則を無視すれば、この文脈を推し進めた先に、何と「経理の人間には、すべての窃盗行為を未然に防ぐ義務がある。」との結論が控えているのである!)


  ◆反論3:ブーメラン効果
  当該物品が管理せねばならない対象であるという条件に基づくならば管理せねばならないはずの複数の物品がほかにあるが、それらについては放置されている。これは、ブーメランを用いて標的を攻撃したはいいが、返ってきたそれを受け取ることができず、自らも損傷を被るという比喩を想定すれば分かりやすいと思われる事態である。



  実際に、アルコール類、生け花、自社オリジナル商品、その他を盗んだ者が複数いるようなのである。目撃者もいる。
  なお、金銭を二度横領した者もいるが、社長は彼を許した。血縁者でも、脅迫されているのでも、その他何らかの利益があるのでもないのに、である。(←たぶん)社長は仏なのか。この問いに対する答えは三度目のときに判明するであろう。
  しかし待たれよ!「仏の顔も三度まで」とは、「仏のように相対的に慈悲深いとされる者であっても、同じ過ちを三度行ったときには怒る。」ということの比喩であるが、「標準よりも相対的に慈悲深い人」という表現について特別の注意をあえて払わないうえで、先の表現を言い直すならば、「標準よりも相対的に慈悲深い人ならば、同一人物による同一の過ちが三度目になったときに怒る。」となる。ところで、この命題を前提するならば、「同一人物による同一の過ちが三度目に達していない状態で怒るならば、標準よりも相対的に慈悲深い人でない。」という命題が必然的に正しくなるが、「同一人物による同一の過ちが三度目になったときに怒る者は、標準よりも相対的に慈悲深い」と考えるのは誤っている。したがって、「この問いに対する答えは三度目のときに判明するであろう。」という判断もまた誤謬である。むろん、これは、先ほども指摘しておいたとおり、「仏の顔も三度まで」を前提するという条件の下での帰結であって、無条件に「この問いに対する答えは三度目のときに判明しない。」と述べているのではないことに注意してもらいたい。
  最後に、思わず危惧してしまったことを正直に白状しておきたい。上では、「標準よりも相対的に慈悲深い人ならば、同一人物による同一の過ちが三度目になったときに怒る。」の対偶を「同一人物による同一の過ちが三度目に達していない状態で怒るならば、標準よりも相対的に慈悲深い人でない。」としたのであるが、これが誤りで、実際には正しい対偶が「同一人物による同一の過ちが三度目なったときに怒らないならば、標準よりも相対的に慈悲深い人でない。」などということはないだろうな?
2008年9月18日】 無限という概念に潜む問題に無頓着であるという事例の典型
  「一度あることは二度あり、二度あることは三度ある。」ならば、「三度あることは、四度ある。」はずである。すると、次のことが帰結する。
  「一度あることは無限度ある。」
  しかしながら、死後の世界というものがないならば、すなわち人は一度死ぬことによってそこでその人のすべてが終わりになるならば、その人が経験するあるできごとが無限度繰り返されるということはない。したがって、「一度あることは二度あり、二度あることは三度ある。」という命題の真理値は偽である。
  ただし、この議論には2つの前提が独断されている。1つは、肯定的背理法(「PならばQ」と「Qでない」から「Pでない」を導き出す、もしくは「QでないならばPでない」=「PならばQ」の対偶と「Qでない」から「Pでない」を導き出す推論規則)が正しいという前提であり、もう1つは、三浦俊彦が示唆した確率論的輪廻転生(『多宇宙と輪廻転生−人間原理のパラドクス−』を参照)が生じないという前提である。(肯定的背理法を独断的に前提するのが問題なのは、その規則に二値論理が含まれるためである。多値論理は行き過ぎであるにしても、真と偽に真偽決定不能を加えた三値論理が正しいという可能性の検討を要するであろう。)
  また、そのできごとが三度で終わる論理的根拠がある可能性についても無視されている。(もっとも、これまでその命題を主張してきた者には論証し得ないであろうが。)


  ところで、あるできごとが同一であるとは何が同一であるのか。たとえば、段差に躓いて転びそうになるというできごとが二度起こるというとき、直感的にはその文を分かったつもりになってしまうが、一度目と二度目の「段差に躓いて転びそうになるというできごと」は本当に同一のできごとなのか。少なくとも、すべてにおいて同一ではあるまい。(なぜ転びそうになったか、どのように転びそうになったか、転びそうになる度合い等々)
【2008年9月16日】 言語と論理の問題
  「合わせ鏡」という降霊術があるらしい。それは以下のようなものである。
鏡を4枚と蝋燭を一本準備して下さい。
真上から見たときに一辺の長さが15cm程度の正方形になるよう、東西南北の位置に鏡を立てて置いてください。
部屋の電気を消し、午前12時46分から午前1時13分までの27分間の間に鏡で作った正方形の真ん中に蝋燭を立てて火をつけてください。
すると、合わせ鏡の中にとても怖いものが映るそうです。
試してみた人がいたらしいのですが、ショックで口がきけなくなってしまい、未だに鏡に何が映ったのか分かりません。
よほど怖かったのか、入院中に自分の両目を抉り出し、最後に「見なければよかった……」と言って死んでしまいました。
  私はこの種のことに影響されやすいという認識を持っているが、それでも直ちに問題になる表現に気づいた。「真上」、15cm「程度」、「正方形」、「東西南北」、「12時46分」、「真ん中」、「とても怖いもの」等々……。
  これらについての真理が判明しない限り、(文字通りの合わせ鏡ではなく)降霊術としての「合わせ鏡」が上記の形で実在するという命題が正しいとは言えないであろう。




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